
No.0001思い立ったら、すぐやってる。赤池 富士夫 株式会社ユーシ・イレブン 代表取締役会長
No.0001取材公開
倒産危機から独立。高級ブランドまで手掛けた貼り箱屋が、工場を同業者に公開した理由
赤池 富士夫株式会社ユーシ・イレブン 代表取締役会長
静岡県富士宮市の株式会社ユーシ・イレブンは、高級な化粧箱(貼り箱)を作っている。高級ブランドの箱も手掛けてきた。15年ほど前、創業者の赤池富士夫さんはイタリアのエンメチ社の貼り箱の自動機を日本で初めて入れ、動かし方のノウハウごと同業者に公開した。当時の業界では、工場を同業者に見せないのが普通だった。
- 文
- 栗林 佑
- 写真
- 村岡 祐太郎
- 映像
- 村岡 祐太郎

1991年にユーシ・イレブンを作った赤池富士夫さんは今75歳だ。毎朝4時ごろに起きて田んぼと畑を見回り、それから会社に来る。
プロフィール

赤池 富士夫(あかいけ ふじお)
株式会社ユーシ・イレブン 代表取締役会長
1950年、静岡県富士宮市北山で農家の三男として生まれた。高校では柔道部と美術部に入っていた。高校を出て自動車部品の会社に入社したが、半年で実家に戻り、家業の牛乳屋を33歳まで続けた。1983年ごろに印刷会社に入り、1988年ごろに貼り箱を作る会社へ出向した。その会社の倒産に備えて自分のお金で新しい会社を作り、1991年10月5日に同僚たちと株式会社ユーシ・イレブンを始めた。今も米や野菜、ブルーベリーなどを育て、お世話になった人に送っている。
株式会社ユーシ・イレブン高級な化粧箱(貼り箱)を作っている。工場は静岡県富士宮市北山にある。
牛乳配達を続けながら入った印刷会社
――高校時代はどんなことをしていたんですか?
柔道部と美術部に入ってました。柔道は、高校に入ったときの先生に「やれ」と言われてやったんだけどね。美術は自分が好きだったから入ったんです。小さいときに上手だねと褒められて、それがうれしかったんですよ。色彩とかバランスとか、今の仕事につながってる部分はあると思いますよ。

社会人になってからは草野球をやってました。70歳ぐらいまで続けてたんですよ。
――高校を出てからはどんな仕事をしてきたんですか?
高校を卒業して、自動車部品の会社に入ったんです。でも半年ぐらいで辞めて、実家に戻りました。兄貴が、女系の家族のところへ婿に行くことになったんです。「親が大変だから帰ってこい」と言われて帰ってきたら、兄貴は「俺は向こうに行く」と言う。跡を継ぐ気なんて別になかったのに。
実家は牛乳屋と農家をやっていて、33歳ぐらいまで、親と一緒に牛乳の配達と卸をやってました。
20代のころは、同業の人と同じように10万ぐらい稼げてた。それが33歳ぐらいになると、同業のみんなは15万、20万となっているのに、私はずっと10万のまま。それじゃ生活できないですよ。牛乳屋では食えなくなっちゃったんですよね。
それで、店は親に任せて、33歳で印刷会社に働きに出ました。朝の牛乳配達はずっと続けてたんです。印刷会社の夜勤が終わって帰ってきたら牛乳配達をして、それから寝る、という生活でした。
――印刷会社ではどんな仕事をしたんですか?
入ったのは、ビデオのケースが紙からプラスチックに変わるときでした。プラスチックに熱で折り目をつける部署に配属になったんです。
それまでは牛乳屋で自由にやってたでしょう。朝の仕事が終われば、昼間は麻雀はやるわ、何はやるわで。それが急に時間に縛られて、単純作業をやることになって。それが嫌で嫌でね。
だから、入ってすぐに、機械の調整なんかを自分からどんどん聞いてやるようになったんです。新しい部署だったから、すぐに責任者みたいになりました。100人ぐらいの会社で、1年ちょっとで役付きになっちゃったんですよ。最初に役付きになったときは、みんなに妬まれて、意地悪されたりしましたよ。
これは、牛乳屋をやってたからだと思うんですよね。お金の入り口から出口までを、一続きで見る目があったんです。
当時の工場長とは、公私を分けて付き合ってたんです。会社では立てるときはちゃんと立てるけど、仕事が終わって個人になったら、サラリーマンでずっと来たわけじゃないから、おかしいことはおかしいと平気で言ってたんですよ。人としては対等だと思って話してたら、それが気に入られたんでしょうね。
その後、別の工場長になって、工場長派と課長派に分かれたような会社になりました。派閥なんてばからしいから、相手にしないで、どっちにも入らなかったんです。
そうしたら、東京から来た会社に人を出向させることになって、工場長派も課長派も、自分の派の人間を出すのを嫌がったんだよ。俺は唯我独尊でやってた人間だから、どっちの派閥にとっても思いどおりにならないし、管理する力もある程度あるから。それで、白羽の矢が立っちゃったような感じです。38歳のときでした。
倒産に備えて自腹で作った会社
――出向した先の会社では何があったんですか?
出向先に来て2年たって、社長が交代したときに、私も転籍してその会社に入ったんです。社長が変わったら、社名も変えちゃったんです。イタリア語で「想像する場所」みたいな意味の名前でした。
そのまま働いていたら、ある日、その会社の会長に急に「千葉へ一緒に行ってくれ」と言われたんです。行ってみたら、生協の運送をやっている会社で、「お前、この会社の常務になってくれ」と言われました。なぜかと思ったら、会長の友達の会社だったんです。
なぜそんなことを言うのかと思ったら、うちの会社が8月末に1回目の不渡りを出して、9月に2回目を出す、と言うんです。お盆の前に言われました。
会長は、俺をなんとか助けようと思って、常務の話を持ってきてくれたんです。でも俺は「それはだめです」と断りました。従業員がいるから、従業員の行く末を見てから自分の行く末を決める、倒産するのも受け入れる、と言ってたんです。
そうしたら、ある日、従業員が一人、「ついていきたい」と言ってきたんです。それで、生きていくのに、俺みたいになんとかなる人間ばかりじゃないんだと気づいたんです。じゃあ、みんなを生かせる方法はないかと考えました。
それで、司法書士さんに相談して、会社を個人で立ち上げるにはどうしたらいいのかを聞いて、自腹を切って会社を作っちゃったんです。倒産したら、すぐに新しい会社でスタートできるようにしてたんですよね。それで、みんなに声をかけて、一緒にやると言ってくれた人たちと始めました。
最初のころは、仕事があれば、夜中の2時、3時でもみんなやってくれました。いったん家に帰って、また来てやってくれてたんです。
――ユーシ・イレブンという社名にはどんな意味があるんですか?
志のある人間が11人、つまり有志が11人で、ユーシ・イレブンです。漢字で書くとあまりにもどぎついから、カタカナにしたんです。
俺は人間が弱いからさ。良くなってくると、ちょっとこうしたくなるじゃん。自分の給料だけいっぱい上げるとか、ちょっといい車を経費で落とそうとか。どうしても欲が出ちゃうから、社名にしとけば原点に返れると思ったんです。
戒めのための社名だよね。

立ち上げたのは41歳ぐらいのときです。平成3年の10月5日だから、創業して35年ぐらいになるね。
ヴィトンの箱が難しくなかった理由
――名の知れたブランドの箱も手掛けていますが、最初はどんな箱を作っていたんですか?
最初はね、ジグソーパズルの箱でした。出向で行った先で、ジグソーパズルの箱を作ってたんです。
その箱を東京に送ってたら、最初は全然合わないんですよ。東京の上野で作ってた貼り箱屋さんは、東京で作ってるから、500個、何百個、1000個と作ったら、東京のメーカーへピストン輸送できるんですよ。それが静岡に来てからは、昨日作ったのと同じ箱を今日もまた500個作って、東京まで持っていくことになったんです。
これは東京でやってたからできた商売だ、安い箱を作っちゃだめだと思ったんです。


――そこから高級な箱に移っていったんですね。
そのころ、イギリスの商社のジャーディン・マセソンが、洋酒を日本に輸入していたんです。向こうでは5、6000円のお酒が、日本に持ってくると2万円で売れたりしたんですよ。並行輸入が始まる前の話です。それで、高島屋や三越、伊勢丹のようなところで売る箱を、日本人向けの高級なパッケージで設計してほしい、という話が来ました。ジャーディンに段ボールを納めていた会社を通じてでした。
中身を預かって、それまでの安っぽいパッケージではなく、デザインを大事にして作りました。ジャーディンの箱を、いろんな種類作りました。ジャーディンの箱をやりながら、高級な貼り箱に移っていったんです。
わざわざアメリカやフランスやイギリスの本国に送って、オーケーをもらってから箱を作っていたんです。そうしていたら、ルイ・ヴィトンの話が来ました。そのときは全然難しくなかったんですよ。その前に、難しい仕事をやってたから。
ヴィトンの箱を作るときに、本国から査察に来たんです。来てみたら、私が設計した輸入洋酒の箱が全部並んでるわけですよね。それを見て、「ここで作るんだったらオーケー」と言われました。日本で唯一、本国の承認を受けて作ってたんです。ヴィトンをやって、ロエベをやって、となると、ブランドの箱も集まってきますよね。


――これまでで一番影響を受けた人は誰ですか?
それぞれの分野で影響をもらってるから、一番、二番とは決められないですね。
例えば箱屋さんに入って、最初は箱の呼び名も寸法も、いろんなことが分からないときに、紙の代理店にいた課長さんが、紙の寸法の呼び方から教えてくれました。
それから、うちが一生懸命作った箱が届いたら、「これはみんなだめだから捨ててください」と言ったお客さんがいました。本気でけんかしましたよ。こっちだって一生懸命作ったのに、届いたと思ったら捨てろでしょう。でも、そこまでの品質を求めるんだということを教えてくれた人です。
付き合いが長く続いてるのは、だいたい本気でけんかした人です。そういう人ほど、ずっと続いてるね。年長の人はもうみんなリタイアしてるけど、今も付き合いがあります。
影響を受けた人のことは、ずっと尊敬してるんです。だから、季節の贈り物をしたり、作った米を送ったりしてます。今はメールやLINEでも十分伝わると思いますよ。私はたまたま百姓をやってるから、送る物があるだけです。
箱を持ち帰るのは大阪の人だった
――高級な箱を作るようになってから意識して見るようになったものはありますか?
もちろん。東京に集金だなんだで行ったときには、デパートを回ったり、美術館や博物館に行ったりしました。あとは、ヴィトンやロエベの店の前にずっといるんです。
こういう客層の、こういう年齢の人が買うんだな、と見ているんです。あの人はヴィトンを買ってるみたいだけど、全然違う入り口から入ってるぞ、VIPの人だな、とか。服装を見ていると、ずっといればなんとなく分かるんですよ。
見ているのは、自分の箱を持って帰ってくれるかどうかです。大阪の人たちは、いっぱい持って帰ってくれたんです。東京の人は袋だけで満足しちゃう。そばに行って「持っていってくださいよ」と言いたくなる。せっかく作ったんだから。
大阪の人たちは本当にしっかりしてる。箱も大事にしてくれる。大阪出身の芸能人の家を訪ねるようなテレビ番組を見ていたら、うちの箱が棚の上にごそっと積んであってね。うわあ、うちの箱をあんなに買ってくれてるんだって。そういう、何気ない喜びがあるんです。
一番痛かったのは、阪神・淡路大震災のときです。箱の需要がぐっと減りました。それどころじゃないし、国内もみんな絞ったけど、箱を持って帰ってくれていた大阪の人たちが、買わなくなったから。あのときは、売り上げがやっぱり下がりましたね。
――箱のデザインはどうやって決めていくんですか?
原点に戻るけど、まず中に入る品物がある。それを立てて見せたいのか、寝かせて見せたいのか、斜めがいいのか。お客さんにどう驚いてもらいたいのか。それを共有しながら、キャッチボールしているうちに、イメージがどんどん固まってくる。お客さんがいないときは、自分の中でキャッチボールするんです。これはできるかな、あれはできるかな、と考えるんです。

パッケージといっても、要は紙で包んできれいにすることなんです。だから、箱だけじゃなくて、ファイルやバインダー、メニュー帳、一枚ものも作ります。そこに、今まで培ってきた技術を出していくんです。





――普段の生活で大事にしている習慣はありますか?
こだわりはあまりないけど、行動としては、思い立ったらすぐやってる。
考えて、頭にぽっと浮かんだら、もう行動してる。行動して成功したら、成功した理由が分かるよね。失敗したら、失敗したことも分かる。自分が考えてやるんじゃなくて、言われてやると、成功しても失敗しても、自分の身には何もならない。
だから、間違っててもなんでも、すぐ行動を起こす。それがモットーというか、実践というか。夜寝ていて、夢で何か思いついたら、すぐ起きてやる。
今朝も4時ぐらいに起きてます。起きたら洗濯して、片づけて、外へ出て田んぼの水を見に行って、そこから畑をやるんです。今朝は、トマトの畑で、脇から伸びた枝を土に埋めておいたら根が出てたから、畝を作ってそこに植えました。うちの裏の竹を切ってあったから、竹竿で柵を拵えて、トマトを括り付けたんです。
畑は趣味じゃなくて、土地があるからしょうがない。雑草だらけにはできないから。米も結構いっぱいできるけど、農業で一銭も稼いでない。だいたい、くれちゃってる。お世話になったお客さんや、お世話になった人に送ったり、身内に配ったり。何家族を支えてるのかな、俺の米って。
仕事が終わったら、だいたい定時に帰って、田んぼを見たり、ブルーベリーを摘んだりします。ブルーベリーはなりすぎて困ってるけど、スーパーや直売所に行くと高く売ってるんですよね。そのままだともったいないから摘むんだけど、これがつらいんです。
8時ぐらいに寝て、また4時ぐらいに起きる。週末は長野や山梨の道の駅や直売所に行って、桃やぶどうを買ったりしてます。そのまま新潟まで突き抜けて、日本海を見て帰ってくることもあります。家でゴロゴロしてることはほとんどないですね。休みになるとゴロゴロしたり寝てたりする人がいるけど、俺はそっちのほうがつらい。
――畑で仕事の考えが浮かぶこともあるんですか?
もちろん、もちろん。畑だって、葉っぱ1枚だって観察すれば、ちょっと水が足りないな、肥料が足りないな、病気になってきたな、と分かる。好奇心がいっぱいだから、何かやろうと思ったら、もうすぐに行動を起こしてる。昔からそうです。
イタリアの機械を日本で初めて入れて工場を公開した
――会社を大きく変えた出来事はありますか?
どうでしょうね。下の工場で見てもらった、貼り箱の自動機ですね。同じような機械はアメリカにもあるし、日本にもあるんですよね。でも、この機械はどこの会社も躊躇して入れなかったんです。
ヴィトンなんかをやっていたあと、うちの会社の方向がなくなっちゃってね。そのころは売り上げも少ない、メインの仕事もない。銀行もなかなか融資してくれない。
そのときに、経営革新計画を書いたんです。計画が通ると、静岡県が8000万円まで、銀行に対して融資を保証してくれるんですよ。その保証を取りました。
それで、日本で初めて入れて国内にアピールするから、少しでも値段を負けてくれ、と交渉したんです。ビッグサイトで展示した機械を、展示のあとにうちが買って入れる、うちがアンテナショップになる、ということで話をつけました。15年くらい前かな。


ところが、そのときは円安で、交渉に行ったときに1ユーロ140円だったのが、150円、160円と上がっていく。負けてもらおうと交渉しているのに、どんどん上がるじゃんって。結果的には、そんなに効果はなかった。プラスマイナスゼロになっちゃった。
――機械を入れて何が変わりましたか?
機械を入れて動かしていたら、日本のいろんなところから見に来るようになったんです。

見に来てもらえるように、業界紙の編集長に手紙を書いたんです。経営革新計画を出して、融資をもらって買った、という経緯を全部書きました。日本経済新聞の静岡版にも載せてもらいました。業界紙の編集長も、取材に来てくれました。
それで、見たい人たちには、全部オープンに見せたんです。業界ではどこも工場を見せない時代でした。


今でも、次に機械を入れる会社の研修を受け入れてる。ここで勉強して、機械が入ったらすぐ動かせるように訓練してもらう。最初のころのうちのノウハウも、技術的なことも、工夫した機械や道具も、全部オープンで教えた。


そうすると、黙っていても、うちの会社のブランディングができたんです。日本全国から研修に来る人たちが、機械屋さんや印刷屋さん、代理店に広めてくれるんです。「うちはイタリアの機械を入れたけど、静岡のユーシ・イレブンで勉強してきた」と話してくれて、それで、勝手に名前が広がっていったんです。
それを繰り返して、今はその機械が国内に50台以上あります。入れた人たちがいる北海道から九州、沖縄まで、同業者の中ではユーシ・イレブンの名前だけは知れ渡るようになりました。
――見せないのが当たり前の業界だったんですか?
最初にこの業界に入ったとき、貼り箱の糊の種類も、どうやってるのかも全然知らなかった。同業の人に「教えてください」と言っても、工場を見せてくれない。糊を教えてくれない。隠しちゃう。
どうしても、業界が狭くならざるを得ないんですよ。決まったお客さんを相手にしていて、そのお客さんの割合が大きいから。例えば町のお菓子屋さんの近くにある貼り箱屋さんは、そのお菓子屋さんがメインだから、そのお客さんを一生懸命大事にしちゃう。貼り箱屋さんのほうが小さいから、守りに入らざるを得ない。
今は変わってきてますね、みんな。うちにも見に来るし、勉強に来るし、うちの工場長の弟子は、もう何十人といるんですよ。来たら、彼が中心になって教えてるから。


業界で横につながって、競争だけじゃなくて技術を高め合おうよ、という集まりも毎年やってます。去年で11回目か12回目です。昼はいろんな会社の工場を見て、夕方からは勉強会、終わったらみんなで懇親会をやります。100人、100何十人と集まるようになりました。
厚生労働省の嘱託で、貼り箱の1級と2級の試験問題を考える仕事もしてます。3年に1度ぐらいあって、5人ぐらいで集まって問題を考えるんです。今回で4回目です。
がんの宣告で変わった覚悟
――ご自身を作ったものを一つ挙げるとしたら何ですか?
身につけるものには、あまりこだわってないですね。ズボンでも、合えばいいと思ってる。機能的だとか、着ていて楽だとか、気持ちいいとか。靴も、履き心地がよければいい。
自分を作った一番のものは、読書ですね。高校を出てそのまま社会人になってるけど、本はすごく読んでるんです。だから、考え方は活字から入ってきてるんだと思うんですよね。学歴にこだわる人たちもいるけど、結局はその人となりで、それに一番影響したのは読書です。
小説でも伝記でも、こだわらずに、自分の心を打つものは何でも受け入れちゃう。アニメでも漫画でも、すごい人はいるし。コメンテーターの話を聞くのも好きだけど、ああ、こいつは偽物だとか、自分のことしか考えてないやつだなとか、なんとなく分かるんです。
――大きな病気をされたこともあったんですか?
娘が大学で教育実習をやるときに、スーツを買ったら、そばで見ていたお袋が泣いてたんです。俺ががんを宣告されたときだったからさ。もしかしたら生きていないと思って、娘に実習用のスーツを買ってあげたんですよ。
でも、乗り切りました。鶏の卵ぐらいの腫瘍があったんですよ。手術して調べても何なのか分からなかったけど、悪性じゃなかったんです。だから、まだ生きてるんですよ。
逆に言うと、あのとき死んでいたかもしれないと思うから、自分の生に対する執着は、あまりないんですよね。だから、従業員のために死ぬことも厭わない、と思えるようになってるんだと思うんです。何かで私に責任があって、それを取るのなら、怖いは怖いかもしれないけど、昔の武士みたいに腹を切れと言われたら、切ることは厭わないですね。それくらいの気持ちで経営してるんですよ。
自分をよく見せようとか、威張ろうとか、そういう感覚は一切ない。謙虚という気持ちとも違う。思ったことをやって、間違ったら、相手が子どもであろうが若かろうが、素直に謝る。常にありのままでいるのが、一番楽だから。思ったことを言って、思ったことをやって、間違ってたらすぐに直す。そこに対するプライドは何もない。
真っすぐじゃないですよ。常に間違って、うろうろしてる。
大事にしているのは利他の精神です。利益の「利」に、他人の「他」です。昔の日本の武士でも軍人でも、同じだと思います。
――社長という仕事をどう見ていますか?
中小企業の社長ほど、男らしい仕事はないのよ。自分が思ったことができるから。うまくいこうが、いくまいが、イメージしたことを実践できる職業って、ありそうで、そんなにない。言われたことを実践する職業はいっぱいあるけどね。だから、お山の大将になれている幸せは、かみしめるべきだと思うんですよ。
最高賞を取った日本酒のパッケージを考えた
――今はどんなお客さんから仕事が来ているんですか?
箱屋で仕事を広げていけるのは、何万個、何十万個と作れる機械を何台も抱えた、規模の大きいところです。資本の大きいところじゃないと難しい。
うちなんて中途半端ですよね。機械は2台あるけど、要は、うち自身の営業力が少ないんですよね。営業を抱えるほどの規模じゃないし、営業力のある会社から仕事をいただいてやってきた。印刷会社、紙の代理店、同業者、いろんなデザイナーさんと、間に何社か入っている。
うちは定番が少ないから、今まではそれが強みだったんですよね。定番だと値上げするのが苦しいけど、新しい仕事が常に集まってたから、「これはこれだけかかります」とやれて、値段の交渉をしなくてもよかった。



同業者には知ってもらっていても、その先の、実際に箱を使う人にはあまり知ってもらえていないんです。ただ、そういう中でも、こだわって商売をしている人が、ネットで探して探して、うちにたどり着くことがあるんです。沖縄の泡盛やウイスキー、長野のチーズケーキ屋さんのように、自分のイメージしているものを形にしてくれるところにやっと出会えた、と来てくれる。その分、値段は高いけどね。
――良いデザインかどうかは何で判断しているんですか?
本を読んでいたって、自分の気に入ったことだけ覚えてるじゃん。人だって、好きな人が言ったことは覚えてるけど、こいつはくだらねえなと思ったら覚えてないじゃん。
デザインも同じで、全部、自分の琴線に触れるかどうかです。琴線に触れないものは、どんなに立派でも、弦の一音も鳴らないじゃん。
お店に入ったときに、いいメロディーが流れているように感じるデザインやブランディングがあるでしょう。ビッグサイトの展示会でいろんなブースをのぞくと、思わず入って「ここのデザインはすげえぞ」「ここはいい雰囲気だぞ」となるところがあるじゃん。他はみんな、がらくたを並べてるだけになっちゃう。
人を介してだけど、一流のデザイナーさんの仕事もなんだかんだやってると、デザイナーさんが喜んで来たいと言ってくれたりする。私がデザインしたものがフランスで賞を取ったり、去年の9月には、私がパッケージを考えた日本酒が、ワインコンテストの日本酒部門でグランプリを取ったりした。どんな田舎の個人でも、琴線に触れるものをそれなりに突き詰めれば、世界に共通する。世界の人にも響くんじゃないかと思ってるんです。



大切にしているもの
本『地上最強の商人』(オグ・マンディーノ著)
自分を作ったものは何かと聞くと、身につけるものにはこだわりがなく、一番は読書だと答えた。この本は、がんを疑われて入院したときに税理士の先生から贈られたものだ。10章あり、毎日同じ章を10回音読するように書かれている。行き詰まったときに随分助けてもらったという。
編集後記
ユーシ・イレブンのブースには、手触りがよく、ひと目で品質の高さがわかるパッケージが並んでいました。2025年10月、名古屋の展示会で赤池さんと初めてお会いしたときのことです。美しい製品に触れ、「これを作っているのはどんな人たちなのだろう」と強く惹かれたのを覚えています。
翌月には工場を見学し、少しお話も伺いました。しかし今回、改めてインタビューを振り返ることで、彼らが抱えてきた壮絶な苦労がくっきりと浮かび上がってきました。
倒産に備え、私財を投じて会社を用意したこと。円安による機械の価格高騰。そして、阪神・淡路大震災のあとに箱が売れなくなったこと。
月並みな表現ですが、彼らのようにものづくりに真剣に向き合う人たちは、間違いなく日本の宝です。
翻って、私も一人の会社経営者です。「従業員のために死ぬことも厭わない」という赤池さんの言葉は深く胸に刺さりました。人を守るという責任の重さを噛み締め、私もまた、その覚悟をもう一度決め直しました。
栗林 佑
- 公開日
- 2026.09.27
- 取材日
- 2026.08.13
- 場所
- 静岡県富士宮市